ぬま塾ビヨンド (vol.26)
こんにちは、地域支援員の小野寺です。
2019年2月14日(木)に開催しました、ぬま塾ビヨンド(ぬま塾第26回)の様子をお伝えします。
今回のゲストは、株式会社インディゴ気仙沼 代表取締役 藤村 さやかさんです。
生まれはアメリカ。震災を機に気仙沼を訪れ、だんなさまと出会われて結婚・出産を機に、気仙沼へ移住。仲間のママさんといっしょに染色工房を立ち上げ、100%天然インディゴによる染色受託や、オリジナル商品の製造販売をされています。さらに「パステル」の栽培に世界で2例目に着手し、ファッション業界から注目を浴びています。
この日の参加者は25名。なんと、半数以上がぬま塾はじめて参加の方でした!
会場では「ストール」など株式会社インディゴ気仙沼で取り扱っている商品を販売してくださいました。
また、この日はバレンタインだったこともあり、インディゴ気仙沼のみなさんから参加者の方に藍を使用したお菓子の「ビスコッティ」と「フィナンシェ」をいただきました。
講話
ここでは講話のポイントをいくつかご紹介します。
- 父がトヨタの子会社のエンジニアをしていた関係で、日本がバブルの時に父が海外駐在員としてミシガン州デトロイトというところにいた。その時に生まれた子どもだった。私が、小学校5年生の3学期に日本の小学校に転校。私たちはアメリカから帰ってきて、「日本の狭い家に住めないよね」ということで父が大きい家を建ててしまったので、父は家のローンに追われていた。
- 私が大学2年のときに、母ががんを患った。1度、私が高校生の時に同じがんを患っており、寄与歴がすでにあった為、保険金が少ない額だった。
- 母の医療費を「誰が払うんだろう」となったときに、私は早稲田大学に入学して2年目、弟は上智大学に入学して1年目だった。「男の子である弟が上智大学を卒業した方がいいと思うし、私はなんとかなるだろう」ということで大学を中退したものの、実際に大学を中退すると、「わたしの人生真っ暗なんじゃないか」というくらい落ち込んでしまった。
- 自分の生活費と母に送る医療費を稼がないといけなかったこともあり、就職雑誌の「an」という雑誌を読んでいたらNECという電気通信会社の子会社の求人をみつけた。実際に海外に行き、携帯電話のバグをどんどん発生させてレポートを作るという仕事が高い給料で募集されていた。入社して配属された先がフランスのブイグテレコムという携帯キャリアだった。そこのフロアに常駐してバグだしをしながら、現地の開発者と一緒に打ち合わせをして、修理してもらうということをやっていた。
- 食の町パリということもあり、食に目覚めた。パンとバターだけでも美味しくて、給料でいろんなところを食べ回った結果、腸を悪くしてしまった。ブイグテレコムかかりつけの中国人のお医者さんに診察をしてもらったら、煙草を吸って足を組みながら「あんたさ、日本人なんだからバターたっぷりの物は食べちゃダメだよ。バルシェに行ってチコリとか野菜を買ってきて蒸すの」と言われた。そして、海外の方と日本人では消化できるものの体の構造自体違うんだなと理解した。そのまま、体を壊し帰国を決めた。
- 帰国が決まった時に「次の就職先どうしよう」となった。その時はまだ、フランスに住んでいた為、リクナビに登録した。海外にいるのにサクサクと会社説明会や面接などが決まっていき、「インターネットってなんて素晴らしいんだろう」と思った。調べていくとソフトバンクの孫正義という人が「世界中のどんな国にもインフラを広げていき、インターネットの豊かさを享受できるようにするのが自分の使命だ」と言っている記事を読んで、「孫正義の手足になるしかない」と思い、面接した結果、ソフトバンクBBに合格した。
- ソフトバンクBBでは、すごく数字をとってくる3人の営業マンの営業アシスタントを1人でやっていた。基本的にお客様にプレゼンをするのは営業マンだが、営業マンが「どういうパワーポイントにしようかな」と考える前の情報リサーチをして、事実をテーブルに並べて判断材料にしていただくということをしていた。また、営業マンたちはほとんど外出している為、時間がないので私がたたき台となるパワーポイント企画書を作った。そして、「こんなのじゃ全然だめだ。話にならない。」と、一つの提案書につき100回くらい修正が返ってきて100回くらい提案するということを繰り返した。この営業アシスタントをやっていた3年間で自分の強みとなる企画提案力・パワーポイント作成能力を身につけた。同時にダメ出しを個人的にとらない力も身につけた。すると、誰からなにを言われても自分の人格を否定されたと取らないようになるので、「この子はダメ出しをしたら受け入れてくれる子だな」とどんどん可愛がってくれるし、自分のメンタル的にもいちいち落ち込まないようになるので最強になる。これをわたしは20代で経験して、すごく良かったと思う。
- 気仙沼出身の主人と結婚をし、出産のため気仙沼に移住した。東京から気仙沼に来て、驚いたのは平均所得の低さだった。これまでは祖父母と3世帯で住み、祖父母に子どもを預けて若い夫婦は働きに出るということができていたが、核家族化や震災で祖父母とバラバラに住むようになると、祖父母に子どもを預けるわけにもいかないし、預ける場所も少なく、母親が働きにでることができなくなった。当時、息子は8ヶ月だった。0歳児から預かってくれる保育所が3ヶ所あり、3ヶ所全部に申し込んだが、全て断られてしまった。自分自身も困っているし、他のママさんも困っているのなら、子どもをおんぶして空いた手で仕事ができる染色工房を子育て中の女性3人でオープンさせた。
- 私にとって気仙沼は「人が良いから」、「食べ物が美味しいから」など一つ一つ好きになる理由を見つけていくまちだったが、息子にとっては好きになる理由なんていらなくて、最初から故郷。「気仙沼を好きになれるようにすごく頑張るけど、どうしてもダメだったら夫に言って帰らせてもらおう」と逃げる隙をいつも探していたが、息子を産んで初めて胸に抱いた瞬間に「逃げるのではなくて、このまちで改善していきたいことがあると思うんだったら、母の責任として息子のためにこのまちを作っていこう」と思うようになった。
トークセッション
講話の後は、ゲスト×司会者のトークセッションを行い、さらに詳しくお話をうかがいました。
《質問》
気仙沼に来てから嫌だな、辞めたいな、離れたいな、と思うことはありましたか?また、その対処法はどのようにしてましたか?
《ゲストの回答》
基本的に人生も仕事も辛抱しなきゃいけないことが300個くらいあって、「やっていて良かった」と思うことが1個ある。「なにか役割を求められたら、それを演じると決め、演じると決めた以上確実に責任を取り続けること」ということをいつも自分に言い聞かせている。
質疑応答&グループトーク
トークセッションと質疑応答の後は、グループワークの時間です。今回は、お隣に座っている2、3人でグループをつくり、藤村さんのお話を聞いた感想をお互いに共有しました。
参加者のこえ
参加者のみなさんの「感想」をご紹介します。
《感想》
- 出産後も、楽しんでいる姿が印象的だった!柔軟的な働き方→誇り!
- エピソードがすごすぎました。驚きの連続でした。
- なぜ気仙沼へきたのかが面白かった。楽しい話だった。
わたしにとって‟母の責任として息子のためにこのまちを作っていこう”という言葉がとても印象的でした。
さやかさんが気仙沼に来た理由、それは「子どもを産む場所がここだったから」。しかし、産まれた子どもにとって気仙沼はふるさと。その、ふるさとで暮らしやすくする為に‟まちをつくる”というお考えがすごく素敵でした!
今回も素敵な学びがあった、ぬま塾vol.26でした。
次回はいよいよ、2018年度ラストのぬま塾です。どうぞお楽しみにー!