ぬま塾 vol.25
こんにちは、地域支援員の小野寺です。
2018年11月7日(水)に開催しました、第25回ぬま塾の様子をお伝えします。
今回のゲストは、勝倉漁業株式会社 代表取締役社長 勝倉 宏明さんです。
気仙沼の基幹産業である遠洋漁業を古くから営んでいる社長さん。またいつもとは違った観点でお話いただきました。
この日の参加者は17名。
参加者の中で高校時代からの勝倉さんをご存知の方がおりましたが、ここまで詳しくお話を聞かれたのは初めてだったようで「そんなことしていたんだ!?」と驚かれていた様子でした。
講話
ここでは講話のポイントをいくつかご紹介します。
- 創成期から魚問屋を系列してやっていた。家には会社の社員だけじゃなくて乗組員や魚屋さん、その人達の食事を用意するお手伝いさんが2人くらいいて、そのお手伝いさんの家族もいるから普通の家庭じゃない生活を送っていた。仕事場の中に住んでいるという感じで、乗組員や魚屋さん、お手伝いさんなど兄弟のようだった。そんな大人数の中で子どもの頃は生活していた。大人数が常に家の中にいて、その中で時間のある人がご飯を食べたりしていた。仕事が忙しかったということもあった為、親と一緒にご飯を食べた記憶がない。
- 私の祖父は物凄く気難しい人だった。環境も環境だった為、祖父は食事を一人で食べていた。祖母が亡くなってから、「おじいさん、可哀想だな」と子供の頃に思った。それから、祖父と一緒に寝るようになった。祖父からは将来の会社の経営とかの話を子どもの頃から聞かされていた。いま、自分が仕事しているのも祖父に洗脳されていたおかげかなと思っていて、感謝している。
- 魚町の桟橋が魚河岸だった。その名残で桟橋だけが残っていて、桟橋付近を遊び場として遊んでいた。潮が引くと砂浜が出現して、魚や貝などを採っていた。近くに五十鈴神社という神社があり、神社の浮御堂の裏側に急な傾斜の岩があった。それを滑り台と呼んでいた。岩の滑り台は海に繋がっている為、滑りすぎると海に落ちてしまう。五十鈴神社の境内では、缶蹴りやかくれんぼして遊んでいた。五十鈴神社の下に小さな洞窟がある。都市伝説で、洞窟が大島に繋がっているといわれていて、幼い頃はずっと信じていた。
- 小学生くらいになってくると、エースポートに野球をしに行った。昔は気仙沼に子供がたくさんいた為、地区ごとに少年野球があった。女子はフットベースボール。大会に向けて、エースポートで野球の練習をしていた。バット・グローブ・たも網を持参していった。ホームランを打つと海に球が入ってしまうため、球を拾うのにたも網が必需品だった。小学生のころは6年間柔道を一生懸命やっていたという記憶があるが、中学3年生の時と高校1年生のときに胃潰瘍と十二指腸潰瘍で1ヶ月ほど入院していた。精神的にはそんなに強くなかったのかなと、今になって振り返ると思う。
- 高校に入ってからは運動をやめ、休眠状態だった地学部を同級生10人くらいで乗っ取った。先輩が数人しかいなかった為、簡単に思い通りになった。星座の観測の会を月に1回やっていた。星座の天体観測というのは表向きの話であって、実際は部室で麻雀をしていた。休日は友達の家に毎週泊まりに行って、土曜日なんかは朝まで麻雀をやって過ごしていた。
- 大学は仙台の東北学院大学に進んだ。大学で奥さんと出会った。大学を卒業後、東京の築地の東都水産という荷受け会社に入社。東京築地の東都水産に就職して、大物部に配属。大物部は大物の人がいるのではなくて、マグロのことを業界用語で大物という。そこで、マグロの販売・セリにタッチしてマグロの流通に携わっていた。マグロのセリの出社時間がすごく早くて、定時で深夜2時半とか2時45分に出社。年末になると夜の11時とか12時に出社していた為、普通の人と生活サイクルが真逆だった。
- 築地での仕事は2年間だったが、相当マグロの現況・流通・販売の勉強をさせてもらったなと思っている。築地での2年間を経て、気仙沼に帰ることになったが、自分としては自然な流れだった。「なんでこの仕事についたんですか」って言われたら、「長男だし、家の仕事だし、祖父に洗脳されたし」っていう形で私の中には自然と入ってきている。
- 気仙沼に帰って来た年の最初の2回くらいは父のカバン持ちで商社に行った。3回~4回目くらいに、「あとは全部任せる。自分でやれや」といわれた。何にもわからないのに1隻300トン~500トンの船が8隻あって、その販売を当時24歳の若僧だった私に丸投げされた。それから冷凍マグロの販売について1から勉強を始めた。父には「値段が高い・低い。失敗した・しない」ではなくて、「乗組員が納得するような値段で決めろ」と言われた。現在も同じ内容の仕事を続けている為、25~26年やっている。マグロの値段交渉だけではなく、水揚げも全部立ち会って、清水とか八重洲とかでやってきた。出張がすごく多い仕事のため、年末に出張何回したか数えたことがある。180日くらいだった。1年間に160~180日くらい毎年国内だけでなく海外にも出張にいっていた。出張しすぎて、息子の作文に「パパの仕事は出張っていう仕事です」と書かれた時がある。
- 去年から気仙沼漁業の理事になり、漁業の経営にも携わるようになってから改めて気仙沼市全体の水産というものをみるようになった。気仙沼はやっぱりカツオとサンマ、マグロを水揚げしていて非常に良いと思っている。カツオの水揚げ量を22年間連続で日本1位を達成している。しかし、乗組員の後継者の未来が深刻。気仙沼では震災後に全国から未経験の若い船員を集め、1から船員を作り出そうという取り組みをしている。5年で約100人全国から集まってきているが定着率は半分。前向きにどんどんやっていけば、会員資格を取って幹部・船員になっていく。うちの船員にも若い幹部の人達がでてきている。5年前からこういった活動をやっていて良かったと思っている。自分の仕事を通じて気仙沼の魚を全国に発信していく、日本の刺身文化に気仙沼の漁業はこういう風に貢献しているということをアピールすることによって、気仙沼の経済にも貢献することになる。乗組員や社員、関連業者の人達にも良い結果を残すということで、私は今の仕事を一生懸命やっていきたいなと思っている。
グループワーク
今回は、3、4人でグループをつくり、勝倉さんのお話を聞いた感想をお互いに共有しました。
参加者のこえ
参加者のみなさんの「感想」をご紹介します。
《感想》
- 「海から見たら気仙沼は大都会」というのが印象的だった。
- 世界と繋がっている気仙沼を実感できた。
- 営業として、乗組員が採ってきた魚を“乗組員が納得する値段で取引する”という言葉、素敵でした!
参加者の方の感想にもありますが、
「海から見たら気仙沼は大都会」という勝倉さんのお言葉が、とても印象的でした。
わたしにとって気仙沼と言えば、海。しかし、陸からしか見たことがなかった気仙沼。
幼い頃から‟気仙沼にはたくさんの船が集まっている”それが当たり前の風景だと思っていました。しかし、気仙沼ならではの光景だったことを恥ずかしながら勝倉さんのお話で知りました。
また、いつもとは違った観点で気仙沼の海を誇りに思う時間になりました!
今回も新しい学びがあった、ぬま塾vol.25でした。
次回のぬま塾もどうぞご期待ください!