ぬま塾 vol.18
みなさん、こんにちは。地域支援員の矢野です。
2017年5月24日(水)に第18回ぬま塾を開催しました。
2017年3月29日(火)。
この日、気仙沼と離島・大島をつなぐ「気仙沼大島大橋」が架かりました。
多くの関心が寄せられている「気仙沼大島大橋」は、平成30年度の開通に向けて、現在も着々と工事が進んでいます。
そんななか、昭和23年の設立からこれまで、気仙沼と大島を船でつなげる重要な役割を担ってきた、大島汽船という会社があります。
今回のゲストは、大島汽船株式会社代表取締役 白幡昇一さんです。
気さくでお話し好きの社長は、初めて会った日から地域のお父さんの様に親しく接してくださいました。
まちの重要な交通網を支える会社の社長として、観光協会会長として、数多くの活動をされてこられた、まちへの想いが強く行動力のある方です。
参加者は26名。そのうち、「今回初めてぬま塾に参加した!」という方は、全体の半分以上を占める16名。4月から気仙沼の企業に就職した方が参加してくださいました。
講話
子どもの頃のお話から、通信士として船に乗っていた頃、そして気仙沼に戻ってきてからこれまでについて、楽しくお話をしてくださいました。
ここでは講話のポイントをいくつかご紹介します。詳しい講話内容は、後日公開予定の講話アーカイブをご覧くださいね。
- 祖父が、気仙沼と大島航路の渡船を営んでいた。当時、大島で渡船業として関わる方が10人ぐらいおり、昭和23年にひとつの株式会社になった。気仙沼には同族会社が多い気仙沼ではめずらしく、血のつながりのない人たちが集まった会社である。
- 会社経営は順調にいっていたわけではなく、小学生の頃は、会社が金融機関からお金を借りることができず、役員である祖父と父が、従業員の給料分のお金を借りるために親戚周りをする姿を見ていた。家族三世代で暮らしており、子どもながらに耳に入る言葉は、お金や、生活が大変だという話ばかりで、「うちって貧乏なんだ」と思っていた。
- 高校は、水産高校の無線通信科に進学した。中学校の頃から、外国に行きたいという想いがあり、外国に行ける1番手っ取り早い方法は船であり、無線通信士になって船に乗ればいいと思ったからである。
- 高校では、三級通信士という、漁船に乗る有資格者を養成するレベルまでの学科であった為、夢をかなえるためには、進学して、より高いレベルの資格を取得する必要があった。電波高専を受験したが不合格で、私立の大学にはお金の問題で進学は出来ず、父親の友人のつながりから、東京の船会社に機関部員として入社した。船に乗って風呂掃除や、油まみれになるような仕事をしていた。船内では、仕官と部員の格差を目の当たりにした。
- 勤務中に通信士の方に教えてもらった、通信士の勉強ができる徳島の国立大学を受験し、無事合格して、7ヶ月勤めた会社を辞めた。
- 一級通信士の資格を取得し、大学を卒業した後、神戸の船会社に通信士の見習いとして入社した。船内での待遇が、機関部員の時とは天国と地獄ほどの差があった。仕官食堂でボーイさんにご飯を給仕してもらったり、父親と同じくらいの年齢の男性に部屋の掃除をしたもらうなど、資格の有無で、船上での待遇に大きな差がある世界なのだと実感した。
- スズキ、トヨタなど数千台の日本の車をペルシャ湾まで運搬する船に、連続して1年半ほど乗船していた。ペルシャ湾に停泊中は、ドバイやクウェートなどいろいろな場所へ行った。中近東の人達の生活が気になり、市場に出かけたりもした。クウェートは、貧富の差がとても大きく、お金持ちの人は複数の女性を引き連れて歩いている一方で、貧しい人は男同士で手をつないでいた。仕事で海外に行き、日本と違う文化に触れ、「船って楽しいな」と思っていた。
- 徐々に仕事に慣れてきた頃、日本に帰ってきた時に、新婚の船員さんの家族が、小さいお子さんを連れて面会に来る様子を見て、「自分が結婚したら、こういう生活は嫌だな」と思った。さらに、船をおりて地べたに足をついて雑踏にまみれると、何となく安心する感覚があり、「一生船には乗れないな」と思うようになった。
- オーストラリアから日本に帰る船の中で、当時お付き合いしていた彼女から、「子どもが出来た」と言われた。上司に「休暇をとって帰った方がいいよ」と言われ、昭和53年に船をおりた。そして、そのまま会社を退職することとなった。
- 気仙沼にもどり、就職先を探した。自分の資格を活かして、放送局などに務めようと思ったが、仕事が無かった。当時、大島汽船で専務を務めていた父に、「うちの会社にくるか?」と言われ、子どもも生まれるし、とにかく生活しないといけないという状況もあり、昭和53年7月1日に入社した。
- 当時、大島には宅急便はなく、荷物は貨物船で運んだ。商店の荷物など、大量の荷物を積んだり降ろしたり、さらにフェリーのチケット販売までもすべて2人で行い、とにかく忙しかった。この頃は必死に仕事をしていたが、このような現場の仕事を経験したため、その後、役職が昇格してからも、現場を理解することができ、やりやすかった。船に乗っていた時も、最初に機関部員という底辺の仕事を経験していたため、通信士になった時も、底辺の立場の人の理解をすることができた。若くから良いポジションに就いた人間ではないので、人の心が読める、そのことが後に大いに役に立ったなと思う。
- 大島が大好きで、観光協会に携わるようになった。教育旅行の誘致や、環境NPOを立ち上げて「菜の花プロジェクト」を始めた。
- 地域づくりも、観光も、「よそもの、わかもの、ばかもの」が大事。すぐ金にカウントしてしまったら何もできない。特に観光は、ボランティア精神が無かったら絶対にやってはいけない。私はいろいろなことを手掛けて、手弁当で、お金を費やしながら、いまだに活動を続けている。
- 人生において、数多くの人と出来るだけ多く会って話をし、人間としてひとまわりもふたまわりも大きくしてもらうことは重要である。人は一人で成長するのではなく、人に育てられるものである。また、挫折に屈することなく絶対に立ち上がり、次のステップに立ち向かうことでも、ひとまわり大きくなる。若い人達にはいろいろなことにチャレンジしてもらいたい。
トークセッション
講話の後は、ゲスト×司会者のトークセッションを行い、さらに詳しくお話をうかがいました。
《質問》
幼少期の頃の、“地域”に対するイメージは?
《ゲストの回答》
当時は、テレビで都会の暮らしぶりを見て、島暮らしの貧しさが恥ずかしいと思っていた。それは若いから、恥ずかしいと思うのだと思う。年を重ねると、それが良い面であったりする。それに気がついたのは、大島に帰ってきたとき。大島が好きだということに気づき、暮らしぶりが不便なことは恥ずかしいことではなく、誇りに思えるようになった。
グループトーク&質疑応答
3~4人のグループになり、講話の感想を共有しました。今回も、前回行った「あめ」を使ったグループ分けが盛り上がりましたよ。
グループトークの後は、ゲストへ質疑応答の時間です。今回はその中のひとつをご紹介します。
《参加者からの質問》
若者がつけておいたほうが良い習慣は?
《ゲストの回答》
Give and Take。私が世の中でできないことを、他の人にしていただいて私は生かされている。だから、私ができることをしてあげることが、世の中の人達を生かすことができる、ちょっとした一助になる。自分がやれることはやる。収入につながらない活動であっても、必要な活動があればぜひやっていただきたい。そういう志で地域に携わってもらえれば、いい地域になると思う。
参加者のこえ
参加者が、講義の中で「感想」と「印象に残った言葉」をご紹介します。
《感想》
- 白幡社長の挑戦していく姿勢とひたむきな精神に改めて努力することへの大切さを感じました。
- 苦労話やピンチを楽しそうに話される姿勢が、部下の方や周りの方に安心感、信頼感を与えていると感じました。リーダーはそういうのも大事ですね。
- 社長自身の人間性が面白かった。
《印象に残った言葉》
- Give and Take
- 観光はお金にカウントして考えているうちはうまくやれない
- 失敗を恐れず前に進む
若者の活動に対して、「自分に出来ることがあれば協力したい」と言ってくださった白幡社長。
地域の先輩と若者がつながり、気仙沼のまちづくりがさらに盛りあがっていく…
ぬま塾が、そのきっかけの場になれるとすてきですね。私たち地域支援員も、引き続きがんばります!
次回のぬま塾もお楽しみに!