vol.0 高橋和江氏<御誂京染 たかはし代表取締役>
有限会社たかはし代表。1959年生まれ。
2代目として京染取次業および呉服販売業を営みつつ和装肌着を開発。製造メーカーとなり全国へ直接販売、直接卸をする傍ら、東京において同業者とともに着物を楽しんでいただけるための塾やイベントの開催。また地元を発信する任意の市民団体である気仙沼つばき会会長を務める。著書に「着物まわりのお手入れ」河出書房がある。
《ぬま塾 vol.0 開催概要》
- 開催日程 平成25年11月14日(水)19:00~21:00
- 開催場所 K-port(気仙沼市港町1-3)
- 参加者数 14名
“御誂京染たかはし”について
私は家業として、“御誂京染たかはし”という着物屋をやっています。着物業界はとてもニッチかつ斜陽産業で、自分がこの仕事をやり始めた頃から、どんどん下がり続けているような業種です。私がこの仕事についたのは、正直な話、ただ単に家業だったからという事で、好きでもなんでもなかったです。本当は姉が家業を継ぐ予定だったのに、嫁にいってしまったがために、嫌々家業につくことになりました。
それでも原点みたいなものはあって、私が小さいころは、母親が毎日着物を着ていましたし、地域のおばあちゃんたちも着物を着ている人は珍しくありませんでした。同じ世代でも、嫁にいくなら10着くらい着物を持っているのがあたり前、という時代でした。そういう時代から、実際に着る人も少なくなり、収納に困る、管理が大変、自分では着られないなどの理由で、どんどん着物を着る人が少なくなってきました。
“御誂京染たかはし”は、母が起こしたお店でした。次女として生まれた自分は、小さい頃から姉が店を継ぐものだと思っていました。若い頃は結構じゃじゃ馬で、芝居をしたりバイクに乗ったり、親としては「こんな奴は早く出て行ってほしい」と多分思っていたはず(笑)。私もそんな家を早く出たくてしょうがなかったですし、地域の人たちも口うるさい人ばかりで、はっきり言って気仙沼も嫌いでした。そんな狭い範囲での生活が、若いうちはとにかく煩わしく感じていました。
高校卒業後、仙台で暮らす
高校卒業して何年かは、仙台で暮らすことになります。学生時代から演劇が好きで、在学中からOL時代まで、四六時中没頭していました。仕事や普段の生活と平行して劇団をやることはとても大変な事でしたが、単純に楽しいからという理由で続けられていました。本番1ヶ月前にもなると、毎日夜中まで稽古をし、チケットの販売もしたりと、寝る間もない中でやっていました。でも、少しも無理している、という気持ちはありませんでした。そういった感覚を持てた事は、今の仕事にもすごく活きていると今になって思います。
ただ、そんなキラキラしていた仙台での生活も、だんだんとその感覚がなくなっていくことに気がつきました。出たくて出たはずなのに、いつの間にか嫌になっていた。そんなとき、「実家に戻って来い」と親に言われて、地元に帰ってくる事になりました。本音としては、仙台での生活が嫌になってきていたのに、周りにも、そして自分にも「親に言われたから仕方なく帰ってきた」と装っていました。若いうちって、そんなプライドや虚栄心のようなものが強かったと思います。そういった心は、自分をガードしているようで、実はがんじがらめにしているなと、あとになって気づきました。
気仙沼へ帰郷し、家業を継ぐ
気仙沼に帰ってきて、本格的に家業を継ぐことになります。京染たかはしは私で2代目ですが、現在は譲り受けた当初とは全く別の事業を行っています。着物というジャンルの中でどんどん業種を変えていったのです。
自分は元々着物が嫌いでした。何が嫌いだったかというと、めんどくさい事。たくさん着なければいけないし、たたんだりアイロンをかけたり半襟を縫い付けたりと、細々ケアしないといけない。そんな思いをしてまで着なければいけない着物が、今の世の中に受け入れられるのだろうかと、仕事をしていく中でまず思いました。加えて、着物は着るたびに美容院で着付けをしてもらわなきゃいけないし、着たあと汚れたらシミ抜きもしてもらわないといけないし、とてもお金がかかります。それが嫌だなとずっと思っていました。でも、家業だからやらなければいけないと。嫌いなことを仕事にするのはいや!そこで、少しでもその面倒がなくなる方法は無いかという想いが、今の事業につながっています。自分がものぐさで、面倒くさがりだったから生まれた商売なんです。
私が最初に行った業種転換は、売ることより着てもらうこと。メンテナンス業を強く打ち出し、広く外にもひらかれた店構えに変えていきました。着物業界は元々すごく閉鎖的な上、メンテナンス業はまず儲からないと、誰もやっていませんでした。しかし私は、「着物を着てもらいたいのであれば、メンテナンスを親切にしないと、着物を着る人がいなくなる」と思ったんです。
次に行ったのが小物の販売です。おしゃれをするのに小物はとても大切なポイントですが、和装に合う小物を扱う店が気仙沼にほとんどありませんでした。少ない選択肢の中で選べと言われても楽しくないし、おしゃれしたい人は選びたいんです。だってファッションなのですから。なので、他の呉服屋さんがやらない小物の充実をはかりました。
さらに、肌着の製造にも着手しました。着物は汗ジミが大敵なので、それを防げて簡単に着られる肌着を販売したいと思い、ずっと探していました。しかし、なかなか見つかりません。メーカー側にも作って欲しいとの要望を何度も出しましたが、全く動きがありませんでした。じゃあ無いなら作ってしまおうと(笑)。なので現在は、和装関係のメーカー、小売、メンテナンス業など、総合的に事業を行っています。
人生の転機が訪れる
そんな自分にも、38歳で転機が訪れます。離婚を経験したのです。それは、私にとって人生最大の挫折でした。この狭いエリアで商売をし、色々な付き合いがあると、人の目に晒される機会は非常に多くなります。それは日々ものすごくダメージだったし、 その時は逃げ出したくてしかたありませんでした。でも、子供もいるし、仕事もしなければいけないし、逃げ出したくても逃げられないという状況。そこから丸3年くらいは、非常に苦しい日々を過ごしました。
ただ、この経験を通して、人としての色々な皮がどんどんむけた気がします。逃げ出したくても逃げられないという状況は、すごく大切な経験だったと思います。どんなに辛くても前を向いていなければいけないということは、自分を圧倒的に育ててくれます。この辛かった期間に、「自分がいいと思ったことをやろう、きっと理解してくれる人がいる」と、毎日念仏のように思っていました。辛かった3年間で、それは正解だったと確信することができました。
震災前も、そして震災後も大切にしている言葉に「苦難福門」という言葉があります。これは、苦しいことを通り抜けたトンネルのあとに、必ず輝かしい未来が待っているという教えです。若いころから私は、わりに素直で、正義感が強い部分があったと思います。曲がったことや理不尽な事が嫌いで、そういった事を我慢するのがすごくフラストレーションでした。でも、この年になって気づくのは、そういった我慢を通して、自分と戦い、周りと戦っていくのはとても大切なことだと学ぶ事ができました。一番衝撃的だった離婚という事件は、一番自分を育ててくれたなと感謝しています。こうでないといけない、という枠を自分から取り払う事が、非常に楽しい人生につながると、今強く感じています。
人生で巡り来るものに、無駄なものなんて何一つない
今になって思うのは、人生で巡り来るものに、無駄なものなんて何一つない、という事です。若いころの自分は、なんの取り柄もないはみだしっ子でした。何をしていても、「こんなはずじゃない」という思いを抱えながら生きていましたし、「私はもっと別の何者かだ!」と思っていました。何が自分を幸せにするかがわかっていなかったんです。でも、今はそれがわかります。それは、「人様に喜ばれる事」です。私の存在を周りの人が必要としてくれると感じられる事、それが自分を幸せにしてくれると明確にわかりました。
それを見つけるために大切にしていた事は、「一度引き受けた頼まれごとは何があってもやり通す」ということです。特に若い頃は目先の損得を考える前に、周りの人に対して何が出来るかを考えたほうが、あとで絶対に得をすると思います。なので、人から請われたことはぜひ引き受けて、寝ないでもやったらいいと思います。頼まれたら無理とは言わずにやり通してみると、必ずそこから学べるものがあるはずです。
その腹が括れるかどうかは、若いころの経験が非常に大切だと思いますので、ぜひこれからも頑張ってください。私も色々とおせっかいしたいと思っています(笑)。